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ビカクシダの歴史 — 第1弾「物語編」
2026.05.08

ビカクシダはかつて
英国の温室を飾った

私たちが「ベイチー」と呼ぶビカクシダ。実はこの呼び名は、150年前の英国の園芸商家「Veitch(ヴィーチ)家」に由来します。Veitch商会の植物ハンター、ロスチャイルド家の温室、キュー王立植物園。1799年の学名命名から、19世紀の一次資料を直接辿りながら、約230年のビカクシダの物語を紹介します。

ジェームズ・ティソ『温室にて(ライバル)』 c.1875

どうも、ジサクボです。これは「ビカクシダの歴史」シリーズの 第1弾「物語編」 です。約230年のビカクシダの物語を、19世紀の一次資料を辿りながら紹介します。

01

150年前のロンドンで、もしビカクシダを買ったら

どうも、ジサクボです。

⚠️ Premise

この記事は、Internet Archive 上の19世紀末の植物カタログ・園芸書を辿りながらまとめた "読み物" です。普段の栽培ノウハウ系の記事と違って、ビカクシダの歴史を楽しむための記事として書きました。全ての主要な事実には、原典のリンクを併記していますので、興味のある人は元の19世紀の資料そのものを読んでみてください(パブリックドメインなので無料で読めます)。

専門の歴史研究者ではないので、もし内容に誤りがあったらご指摘ください。

Reading Guide

長いので、興味あるところからどうぞ

読了目安:20-25分。約30,000字あります。気になる章にジャンプして読んでもらってOKです。右サイドバーの目次からもジャンプできます。

「ベイチーの名前って何が由来なの?」 → P.veitchii の名前に残る歴史
「150年前の人々は、どうやってビカクシダを育てていたの?」 → 150年前のビカクウォール|当時の栽培方法
「英国貴族はなぜ温室を建てたかったの?」 → 温室は富のショーケースだった
「ビカクシダはどうやって熱帯から英国に運ばれたの?」 → 英国に広まった4つの要因
「英国の有名な植物コレクターは誰?」 → Veitch商会|世界中から運んだ園芸帝国
時系列で最初から辿りたい人 → はじめにから
Who This Is For

こんな人に読んでほしい

「ベイチー」「ウィリンキー」など品種名の由来が気になる人
ビカクシダを育てるだけでなく、その背景の物語を楽しみたい人
植物ハンターやヴィクトリア朝の温室文化に興味がある人
150年前の栽培方法と現代の比較に興味がある人

私たちが今、室内のLEDの下で何気なく育てているビカクシダ。その背後には、約230年の歴史と、世界中を旅した植物ハンターたちの物語があります

02

はじめに|なぜ歴史の話を書くのか

私は普段、自分の栽培体験から記事を書いています。でも今回は少し趣向を変えて、ビカクシダの歴史を辿る読み物を書きました。

実は、ビカクシダを育てる以外の趣味として、YouTubeで歴史もののコンテンツを見るのが好き なんです。といっても、「ペロポネソス戦争が…」みたいな王道の戦争史じゃなくて、当時の人々の暮らしの裏話みたいな歴史 が好きなんですよね。「中世の農民は何を食べていたのか」とか「江戸時代の長屋の暮らし」とか、そういう。

ある日ふと、「ビカクシダにも、そういうサイドストーリー的な歴史ってあるのかな?」と思って調べ始めました。

きっかけは「ベイチー(P.veitchii)の名前」でした。ビカクシダを育てている人なら一度は聞いたことがある品種名。でも私は5年以上育てていたのに、この "ベイチー" がどこから来た名前なのか、ちゃんと調べたことがなかった んです。

調べてみたら、行き着いたのは Veitch(ヴィーチ)家。19世紀のヴィクトリア朝時代に英国で最大級の園芸商を営んでいた一族でした。彼らがオーストラリア原産のビカクシダの一品種を英国の栽培界に導入したことを記念して、P.veitchii という名前が付けられたわけです。

そこから芋づる式に調べていったら、たどり着いたのは想像以上に大きな景色でした。植物ハンターが命がけで世界中を旅して、英国貴族が温室を建てて、王立植物園が研究の中心になっていた、150年前の英国の物語。私たちが今 "ベイチー" や "ウィリンキー" と呼んでいる品種名の中に、その時代の名残がしっかり残っているんです。

それを知っただけで結構ロマンを感じませんか。私は感じました。これから、その話をしていきます。

03

1799年|ビカクシダが学名を得た日

まず、ビカクシダはいつから学術的に認識されていたのか。

調べてみると、最初の記載は 1799年 までさかのぼります。

ちょっと時代感覚をつかむために言うと、1799年は、ナポレオンがフランスの第一統領に就任した年。日本でいうと 江戸時代後期、第11代将軍・徳川家斉の時代 です。坂本龍馬が生まれる36年前。それくらい昔 から、ヨーロッパでビカクシダは知られていたわけです。

そんな1799年、スペインの植物学者 アントニオ・ホセ・カバニレス(Antonio José Cavanilles) が、現在のP.bifurcatumを「Acrostichum bifurcatum」という名前で記載したのが最初です(出典:Wikipedia "Platycerium bifurcatum")。

ただ、この時はまだ「Platycerium(プラティセリウム)」という属が存在していませんでした。Acrostichum、つまりタカワラビ属の中の一種類として扱われていたんですね。

その後、1827年。フランスの植物学者 ニカイズ・オーギュスト・デヴォー(Nicaise Auguste Desvaux) が、ようやく Platycerium という属を正式に設立 しました。

語源についての記述は、当時の文献にも残っています。1882年に英国で出版された E. Sandford 著『A Manual of Exotic Ferns & Selaginella』(エキゾチックシダの手引き)の202ページには、こう書かれています。

Platycerium Desvaux. From platys, broad, and keras, a horn, the form of the fronds.(プラティセリウム・デヴォー。platys=広い、keras=角、葉の形に由来する)

要するにギリシア語で「広い角を持つもの」という意味ですね(出典:Sandford 1882, p.202 - Internet Archive)。

ちなみに 1882年は明治15年。日本では福澤諭吉の『学問のすすめ』が完結し、自由民権運動が盛り上がっていた頃。英国で植物学者がエキゾチックシダの本を書いていた時、日本では明治政府が近代化を進めていた わけです。

ここでようやく、ビカクシダがビカクシダとして独立した存在として認識されました。1799年から1827年までの約30年間は、「ビカクシダなんだけど、ビカクシダという名前がなかった時代」 だったわけです。

ちなみに同じ Sandford 1882 に、興味深い記述があります。

alcicorne is an old inhabitant, being introduced soon after the commencement of the present century(alcicorne[現代のP.alcicorne / P.bifurcatum近縁]は古参で、19世紀の始まりから間もなく英国に導入されている)

つまり、1882年の時点で英国の園芸界の認識として、P.alcicorneは1800年代初頭にはすでに英国に導入されていた ことになります。少なくとも200年以上、英国でビカクシダ栽培が続いていることになります。

04

ビカクシダはどう英国に広まったのか|4つの要因

属の名前が確立した1827年以降、ビカクシダはどうやって英国に広まっていったのか。調べてみると、主に4つの要因が絡み合っていた ことが分かりました。

要因①:ウォード箱の発明(1829年)— 長距離航海で植物が運べるようになった

1829年頃。英国の外科医で博物学者でもあった ナサニエル・バグショー・ウォード(Nathaniel Bagshaw Ward) がガラス箱の中でシダを育てる実験に成功しました。これが後に 「ウォード箱(Wardian case)」 と呼ばれる、現代のテラリウムの原型です(出典:Wikipedia "Wardian case")。

19世紀のウォード箱の歴史的イラスト
19世紀のウォード箱の歴史的イラスト。中に植物が入っている様子が描かれている。 Wikimedia Commons / Public Domain

このウォード箱、何がすごいかというと、長距離航海でも植物を生かしたまま運べる ようになったことなんですよね。それまで、熱帯から英国までの長い船旅で、ほとんどの植物が枯れて到着していたものが、ウォード箱に入れることで生存率が劇的に上がった。

ビカクシダのような熱帯シダが英国に大量に渡ってこられるようになったのは、このウォード箱がなかったら成立していなかった話 だと言えます。

1829年Ward博士設計のオリジナル箱
ロンドンのチェルシー薬草園に現存する、1829年にWard博士が設計したオリジナルのウォード箱。 Wikimedia Commons / Public Domain

要因②:ガラス税の廃止と温室の普及(1845年)

もう一つ大きな出来事が、1845年の「ガラス税(Glass Excise Act)」の廃止 です。

それまで英国ではガラスに重い税金がかかっていて、温室や大きな窓のあるサンルームを持てるのは、本当の富裕層だけでした。それが税金の廃止で、ガラス価格が下がり、中流階級の家にも温室・サンルームが普及 していきます(出典:Atlas Obscura: Victorian Fern-Hunting Craze)。

熱帯の植物(ビカクシダ含む)を家で育てる文化的・経済的土台が整ってきたわけです。

Chatsworth Great Conservatory 19世紀の写真
ガラス税廃止の少し前、1840年に完成した Chatsworth の Great Conservatory(デヴォンシャー公爵の温室)。設計はジョセフ・パクストン。全長84m・幅37m・高さ19m、当時 英国最大のガラス温室 で、後の1851年の Crystal Palace の原型にもなった建物。これがヴィクトリア朝の「貴族の温室」の規模感。 Wikimedia Commons / Public Domain

要因③:大英帝国の植民地ネットワーク

これも大きい。ビカクシダの自生地を改めて見ると、ジャワ、ボルネオ、フィリピン、オーストラリア、マダガスカル

…これら、すべて 当時の英国またはオランダの植民地圏 です。植物ハンターを送り込んで、生きた株を本国に運ぶシステムが、植民地支配と一体で整っていた。ビカクシダが英国に来られたのは、大英帝国の世界進出と裏表の関係 でもあったわけです。

Marianne North 1876年のボルネオ・サラワク油絵
ヴィクトリア朝の女性植物画家 Marianne North(マリアン・ノース、1830-1890)1876年のボルネオ・サラワク滞在中に現地で描いた油絵「Stagshorn Fern and the Young Rajah of Sarawak, Borneo, with Chinese Attendant」。木の枝に巨大なビカクシダ(おそらく P.coronarium と思われる)が着生し、特徴的な細長い胞子葉が垂れ下がる様子が描かれています。手前にサラワクの若い王(ラジャ)と中国人の随行者、そして子供。当時の英国の人々が想像した自生地ではなく、Marianne Northが現地で実際に見て描いた景色 です。彼女は世界中を一人で旅して800枚以上の植物画を残しました。Kew王立植物園には彼女の作品専用の Marianne North Gallery が今でもあります。 Royal Botanic Gardens, Kew / Public Domain

要因④:Veitch商会など業者の販売力

そして、ビカクシダを実際に栽培化して富裕層に売ったのが、Veitch商会のような園芸業者 です。彼らが自前の植物ハンターを世界中に派遣し、英国に持ち帰った珍植物を温室で育てて、富裕層に売り込んだ。

これは Veitch商会|世界中から運んだ園芸帝国 の章で詳しく書きますが、ビカクシダの実際の "流通経路" を作ったのは、こうした業者の販売ネットワーク でした。

05

そもそも、なぜ貴族はこぞって温室を建てたのか|温室は富のショーケースだった

前章で「ガラス税が廃止されて、温室を建てる土台が整った」と書きました。

でも、ここで一つの疑問が湧きませんか?

「温室を安く建てられるようになったとしても、なぜわざわざ建てる必要があったの?

ガラス温室を建てるには、それでもお金がかかる。暖房の燃料費、専門の庭師の人件費、メンテナンス費。普通に考えたら、別に温室なんて必要ないわけです。それでも、ヴィクトリア朝の貴族や中流階級はこぞって温室を建てたがった。なぜか?

調べてみたら、答えはちょっと身も蓋もないものでした。温室は「富と教養とセンスのショーケース」だったから です。

「実用性のないもの」を温室で育てる = 富のメッセージ

実は、ヴィクトリア朝の温室では、ビカクシダのような観賞植物だけじゃなく、"食用の高級品" も育てられていました。代表的なのが きゅうりパイナップル。この2つの話を知ると、当時の温室文化がどれほど "見せびらかし" 装置だったかが、一気にイメージできます。

きゅうり — キューカンバー・サンドイッチの正体

英国の 「キューカンバー・サンドイッチ」、アフタヌーンティーの定番ですが、なぜ上流階級の象徴だったかというと、きゅうりも当時は温室で育てる高級野菜 で、「栄養価の低いものを食べられる = 私は労働者じゃない」というメッセージ だったから。オスカー・ワイルドが『真面目が肝心』で「reckless extravagance(無謀な贅沢)」と皮肉ったエピソードは有名です(出典:Wikipedia "Cucumber sandwich")。

パイナップル — 温室で育てる超高級フルーツ

そして、きゅうりよりさらに極端だったのが、同じく温室で育てられていたパイナップル です。

18世紀後半〜19世紀初頭の英国では、パイナップル1個の市場価格が £60〜80(=熟練した使用人の年俸に匹敵、現代換算で約100〜160万円)。「馬1頭より高い」ので食べるのは下品な金の浪費 とされ、なんと 「果物商人がパイナップルをレンタルする」ビジネスが成立していた そうです。夜会の前にレンタルし、脇に抱えて登場してステータス誇示、翌朝未開封で返却 — 商人はその同じパイナップルを次の客にまた貸し出す(出典:Today I Found Out)。

1761年にスコットランドのダンモア伯爵が建てた "Dunmore Pineapple" は、パイナップル形の石造キューポラを冠した温室 として今も現存しています。温室そのものをパイナップル形に建てる という、エスカレートしきった例(出典:Wikipedia "Dunmore Pineapple")。

温室の中では何が起きていたのか

つまり、ヴィクトリア朝の温室の中で何が起きていたか をまとめると以下の通りです。

Greenhouse Inventory

温室で育てられていたもの/その役割

パイナップル
食べずに飾る、貸し借りされる "見せびらかしの王"
きゅうり
薄切りにして "栄養を必要としない階級" のメッセージ
ラン、ヤシ、その他の熱帯植物
観賞用、植民地ネットワークの象徴
そして、ビカクシダ
エキゾチックな珍植物としての誇示

全部、同じ温室の中で隣り合っていた わけです。「実用性のないもの」を温室で育てる行為そのものが、富と地位のメッセージ だった。

ジェームズ・ティソ「温室にて(ライバル)」 c.1875
フランス人画家ジェームズ・ティソ(James Tissot)の絵画 「In the Conservatory(Rivals)」 c.1875ヴィクトリア朝の貴族・上流階級にとって、温室は単なる植物の置き場ではなく "社交場" でもあった ことを象徴する一枚。手前の女性たちのドレス、背後の熱帯の植物の葉、暖かい温室特有の薄明かり。当時の温室の空気感 がよく伝わる絵画です。ティソは1870年代にロンドンに住み、ヴィクトリア朝の上流階級の日常を多く描いた画家。 Wikimedia Commons / Public Domain

温室は「植民地を所有する誇示の小型版」でもあった

もう一つの動機もあります。前の章の要因③で「ビカクシダの自生地は当時の英国・オランダの植民地圏」と書きました。

これは流通システムとしての話だけじゃなくて、温室を持つ意味 にも繋がっていました。自宅の温室で熱帯植物を育てるという行為は、"世界中を支配する英国" の縮図 でもあったんです。

「私は植民地から珍植物を取り寄せられる立場の人間です」というメッセージ。自宅の温室で植民地を所有しているような誇示の小型版 だったわけです。

つまり、ビカクシダはどう位置付けられていたか

ここまで分かると、ビカクシダの社会的位置づけが立体的に見えてきます

  • 温室の中で育てるエキゾチック植物の一つ だった
  • パイナップル、きゅうり、ラン、ヤシ と同じ温室で隣り合っていた
  • 「実用性のない美しいものに金と労力をかけられる階級」 のメッセージ装置
  • 植民地ネットワークの誇示 の一部

「貴族はビカクシダが好きだった」というより、「温室文化全体の中で、ビカクシダもその役割を担っていた」 という感じ。

私たちが今 "純粋な美的欲求" で育てているビカクシダ、150年前は社会的なメッセージを発する装置だった というのは、知っているとちょっと複雑な気持ちになる話です。

06

"Pteridomania(シダブーム)" は本当に関係あったのか

ここまで4つの要因を書いてきました。この4つが、ビカクシダの広まりの主要因 です。

ただ、同じ時代の英国には、Pteridomania(プテリドマニア/シダ熱) という有名な文化現象もありました。これは記事の主題から外れる話ですが、面白いので脇道として紹介しておきます。

1855年(クリミア戦争のセヴァストポリ攻囲戦の年、日本では幕末動乱期、ペリー来航の翌年)、英国の作家 チャールズ・キングスリー(Charles Kingsley) が、自著『Glaucus』の中で 「Pteridomania」 という言葉を造りました。日本語に訳すと「シダ熱」「シダ狂い」みたいな意味です(出典:Wikipedia "Pteridomania")。

このシダブームは1850年代から1890年代まで、約40年も続きました。シダのモチーフが陶磁器(ウェッジウッドやミントンなど)、ガラス工芸、家具の装飾、果てはビスケットの模様にまで使われたそうです。

ただ、Pteridomania のメインターゲットは、実は英国の在来シダ でした:

  • 対象:英国に自生する在来シダ80種余り(および無数の変種)
  • 参加者:1840年代の鉄道網拡大で誰でも田舎にシダ採集に行けるようになり、「籠と専用採集箱(vasculum)があれば、農夫でも鉱夫でも参加できる」 ものだった
  • 影響:収集の結果、Killarney Fernなど一部の在来シダは乱獲で絶滅寸前に

つまり、シダブームは「野山で採れる在来シダの収集」が主役 だったんですね。

一方、ビカクシダのような熱帯シダは、シダブームの主流からは外れていました。温室と暖房が必須なので、誰でも参加できるブームではなかった。シダブームによって「シダというカテゴリ全般への社会的関心」は高まったので、追い風にはなった でしょうが、ビカクシダの広まりの "主因" は、あくまで上の4つ だった、というのが正確です。

「シダブームでビカクシダが流行した」とよく言われがちですが、実態は少し違うメインの広まりは温室文化と植民地ネットワーク、シダブームはその脇で起きていた別の現象、と区別して理解しておくと、当時の景色がよりクリアに見えます。

07

Veitch商会|世界中から運んだ園芸帝国

前の章 英国に広まった4つの要因 の中で、要因④「業者の販売力」 として軽く触れました。それを担った巨大な存在が、Veitch Nurseries(ヴィーチ・ナーセリーズ) です。"Nurseries" は字義通りには「苗木園」ですが、世界中に植物ハンターを派遣する大規模な商業組織 だったので、日本では 「ヴィーチ商会」 と訳されるのが慣例です(日本語Wikipediaの立項タイトルも「ヴィーチ商会」)。この記事でも以降は「Veitch商会」と表記します。

規模感がすごい

Veitch商会は 1808年頃ジョン・ヴィーチ(John Veitch、1752-1839、スコットランド出身)エクセター(英国南西部デヴォン州の地方都市、ロンドンから西に約270km)で創業した家族経営の園芸商です。ジョン・ヴィーチはエクセター近郊の キラートン邸(Killerton House) でアクランド准男爵の専属庭師を務めていて、雇い主の援助で近くに自分の苗木園を立ち上げたのが始まりでした(出典:Wikipedia "Veitch Nurseries")。

数字を並べるとその規模感が伝わると思うので、ちょっと具体的に書きます。

第一次世界大戦までに、Veitch商会が栽培化に成功した植物は1,281種。内訳は、温室植物498種、ラン232種、エキゾチック・シダ118種、針葉樹49種など。

植物ハンターを世界中に送り込んだ

Veitch商会の特徴は、自前の植物ハンター(Plant Hunter)を世界中に送り込んでいた ことです。雇用した植物ハンターは、合計22名

採集地を並べてみると、ジャワ、シンガポール、マレーシア、フィリピン、サラワク、インド、オーストラリア、ボルネオ、日本、南太平洋諸島。…見ての通り、ほぼ全部がビカクシダの自生地もしくは隣接地域 なんですよね。19世紀後半のVeitch商会の採集ルートは、そのままビカクシダの故郷を網羅していました。

"Veitch" の名前は数百もの植物に残っている

ここがちょっと面白い話です。Veitch家の名前は、数百もの植物に残っています(出典:St Bridget Nurseries / Veitch Family History)。

例えば:

  • Nepenthes veitchii(ウツボカズラ/ボルネオ原産)
  • Anthurium veitchii(キング・アンスリウム)
  • Calathea veitchiana(カラテア)
  • Corylopsis veitchiana(ヴィーチ・ウィンターヘーゼル)
  • Veitchia 属(フィジー原産のヤシの属)
  • そして Platycerium veitchii

ただし注意したいのは、多くの場合 "Veitch本人が見つけた" わけではない こと。例えば Nepenthes veitchii は、1847年に Thomas Lobb がボルネオで採集 し、雇い主の Veitch商会に送付。その後 1859年に キュー植物園のフッカー博士(Sir Joseph Hooker)が、雇い主の James Veitch を讃えて命名 したという経緯です(出典:Wikipedia "Nepenthes veitchii")。

つまり、構造としては以下のような流れです。

Naming Workflow
01 植物ハンターが世界中で採集
02 Veitch商会が栽培化
03 学者が「Veitch家の業績」を讃えて命名

「Veitch本人が見つけたから命名」というよりは、「Veitch商会のネットワークと栽培技術が欧州にもたらしたから」という業績への敬意 で命名された、というのが正確です。

ちなみに P.veitchii(ベイチー)の場合は、また少し違う経緯で命名されています。詳しくは P.veitchii の名前に残る歴史 の章で書きます。

顧客は富裕層のヴィクトリアン

Veitch商会の顧客層について、いくつかの裏付けがあります。

  • ジェームズ・ヴィーチ&サンズが提供した巨木のセコイアが、ヴィクトリア女王によって王立園芸協会の敷地に植樹された という記録あり
  • 同社のハリー・ヴィーチ(Harry Veitch)は、1906年に王立園芸協会のヴィクトリア勲章 を受章し、1912年には園芸家として初めてナイトの称号 を受けました(出典:Wikipedia "Harry Veitch"
  • 同社は 1853年に「ロイヤル・エキゾチック・ナーセリー(Royal Exotic Nursery)」 をチェルシー(ロンドン)で取得(ロンドン・チェルシーのKing's Roadにあった既存の大規模苗木園。"Royal"=王室御用達、"Exotic"=外来植物の意。地方デヴォンのVeitchがロンドン進出した転機 となった出来事)。買収後、Veitchは蘭・シダ・温室・新種植物など11セクションに分けて運営し、欧州最大級のナーセリー に育てた

王室と直接の取引があったかは断定できませんが、少なくとも王室・貴族層と非常に近い距離にあった業者だった ことは確実です。

そして、1906年明治39年、日露戦争終結の翌年)にVeitch商会は『Hortus Veitchii(ホルトゥス・ヴィーチ)』という公式の歴史書を出版します。商会の歴史と栽培化に成功した植物のリストが収録された記念碑的な本で、Internet Archiveで全文が読めます(出典:Hortus Veitchii (1906) - Internet Archive)。

名前が判明している主要顧客たち

Hortus Veitchii の本文を読み進めると、Veitch商会の主要顧客の貴族の名前が複数出てきます

Lord Rothschild(ロスチャイルド卿)— Tring Park

世界的な金融王朝として知られるロスチャイルド家。Hortus Veitchii には、Veitch商会が1879年にラブアン(ボルネオ)から取得した Vanda Hookeriana(蘭の一種)を 「ロスチャイルド卿が即座に取得し、彼の Tring Park の大庭園で1882年9月に初めて開花した」 という記述があります。

Baron Sir Henry Schroder(ヘンリー・シュローダー男爵)— The Dell, Egham

ドイツ系英国人の銀行家。サリー州 Egham の The Dell という邸宅の温室で、Hortus Veitchii が 「比類のないコレクション(unrivalled collection)」 と称するほどの大規模な熱帯植物コレクションを所有していました。Hortus Veitchii の冒頭の謝辞ページにも名前が出てきます。

Sir Trevor Lawrence, Bart.(トレヴァー・ローレンス准男爵)— RHS会長

王立園芸協会(RHS)の会長。Veitch商会の蘭の主要顧客であり、彼にちなんで命名された種が複数あります。商会のパトロンの一人として記録されています。

Lord Londesborough(ロンデスバラ卿)

蘭の愛好家として知られた貴族。1869年にチェルシーで初めて開花した Cypripedium が 「ロンデスバラ卿の蘭への深い愛情への敬意を込めて、Lady Londesborough にちなんで命名された」 という記述があります。

ちなみに:個人の貴族邸での「ビカクシダ所有」までは追えていない

ちなみに、Hortus Veitchii の中で彼ら個人に紐づけて書かれている植物って、ほぼ全部 "蘭(Orchid)" なんですよね。「Lord Rothschild が Platycerium を所有していた」という直接の記述は見当たりません。

ただ、Veitch商会から大量に植物を買っていて、温室には熱帯植物がぎっしり、しかもビカクシダはVeitch商会の主力商品の一つ(ちなみに次の章で見るとおり、キュー植物園では公式に9種のビカクシダが栽培されていた)。これだけ揃っているので、彼らの温室にビカクシダもあった可能性は極めて高い はずです。

もし「Lord ○○邸の温室にビカクシダあった」みたいな史料を知っている人がいたら、ぜひ教えてください。

08

キュー王立植物園|研究と権威の中心

ここまで 商業の物語(Veitch商会)を見てきました。もう一つ、ビカクシダ史を語る上で外せない軸があります。学術の物語 = キュー王立植物園(Royal Botanic Gardens, Kew) です。

そして実は、商業(Veitch)と学術(Kew)は、深く絡み合っていました

Veitch商会とキュー植物園の関係

前章で書いた Nepenthes veitchii の命名経緯(Thomas Lobbが採集 → Hookerが命名)、あの "命名したHooker" は、キュー王立植物園のディレクター だった人物です。Veitch商会の植物ハンターが採集してきた珍植物に、キュー植物園の権威ある学者が学名を与える — この関係が、当時の英国の園芸界の標準的な進め方でした。

裏付けとして、Veitch商会の1906年の公式書『Hortus Veitchii』の冒頭の謝辞ページには、当時のキュー植物園ディレクター Sir William T. Thiselton-Dyer への感謝 が書かれています。商業(Veitch)と学術(Kew)がガッツリ手を組んでいた ことが、こうした記録からも見えてきます。

1848年完成のパームハウス — 世界初の大規模ガラス温室

キュー王立植物園を象徴する建物が、1848年に完成したパームハウス(Palm House) です。世界初の大規模なガラスと鉄骨の温室で、当時としては革命的な建築でした。

1851-1855年のキュー王立植物園パームハウス
1851-1855年頃のキュー王立植物園のパームハウス(Palm House)。1848年に完成した世界初の大規模ガラス温室で、熱帯植物の聖地となった建物。Thomas Hosmer Shepherd による色版画。 Wikimedia Commons / Public Domain

熱帯植物(ビカクシダを含む)の研究と展示のメッカとなった建物で、ヴィクトリア朝の温室文化のショーケース とも言える存在。Veitch商会が販売した熱帯植物の "学術版" がここで研究されていた、というイメージで合っていると思います。

そして、当時の温室内部の様子 が分かる写真も残っています。

1860年代のキューパームハウス内部
1860年代のキューパームハウス内部。19世紀の立体写真(ステレオビュー)から。(Wikimedia Commons / PD)
1890年代のキューパームハウス内部
1890年代の同じパームハウス内部。同じく立体写真より。約30年の歳月で熱帯植物が育っている様子が分かる。(Wikimedia Commons / PD)

ヤシやシダがびっしり並ぶ姿、150年前の英国の温室の中の空気感 がそのまま伝わってきます。この空間のどこかに、ビカクシダもあった はずです。

1906年の公式シダリスト — 実際にビカクシダ9種が載っていた

1906年、キュー王立植物園は『Hand-list of ferns and fern allies cultivated in the Royal Botanic Gardens』を出版しました。これは「キュー植物園で栽培されている全シダの公式リスト」です。

Internet Archive で原典を確認すると、Platycerium属の項目に9種類のビカクシダが記載 されています(出典:Kew Hand-list 1906, p.110-111 - Internet Archive)。

Kew Hand-list 1906 9 SPECIES

キュー王立植物園で栽培されていた9種

No.
Species
Habitat
01
P. aethiopicum
Tropical Africa(熱帯アフリカ)
02
P. alcicorne
Australia(オーストラリア)
└ var. Hillii
Queensland(クイーンズランド)
03
P. angolense
Tropical Africa
04
P. biforme
Malaya(マレー半島)
05
P. grande
Tropical Asia, North Australia
06
P. madagascariense
Madagascar
07
P. Stemmaria
(aethiopicumと同義扱い)
08
P. Veitchii
Garden origin(栽培起源)
09
P. Wallichii
Malay Peninsula

つまり、1906年の時点で、キュー王立植物園は9種類のビカクシダを公式に栽培していたベイチー(P.Veitchii)も含まれていた ということになります。

1911年のダマー論文 — ビカクシダの糖分泌の発見

そして個人的に一番面白いと思っているのが、1911年 にキュー植物園の研究者 R. Dummer(R.ダマー) が発表した論文です。タイトルは『GRAPE SUGAR AS AN EXCRETION IN PLATYCERIUM』。日本語にすると「ビカクシダにおけるブドウ糖の分泌」(出典:Dummer 1911 - DOI: 10.1093/oxfordjournals.aob.a089368)。

なんと、ビカクシダの葉の表面から糖が分泌される現象 を、世界で初めて学術的に記載した論文なんですよね。

この論文の本文は私自身まだ精読できていませんが、100年以上前にキュー植物園の研究者がビカクシダの糖分泌を観察していた、という事実だけでもちょっとグッときます。ビカクシダを育てていて、葉の表面に白い結晶のようなものが出るのを見たことがある人もいると思いますが、それはもしかしたら、1911年にダマーが観察した現象と同じものかもしれません。

ちなみに:英国以外の国でも研究は進んでいた

ここまで完全に英国中心で書いてきましたが、ビカクシダ研究は他の国でも進んでいました。それは「ベイチー(P.veitchii)」を起点に物語を組み立てているから自然と英国寄りになるだけで、実態はもっと国際的でした。ざっくり並べると:

  • フランス:Platycerium という属名そのものを正式に設立したのはフランスのデヴォー(1827年)
  • オランダ:ジャワ島の ボイテンゾルグ植物園(現ボゴール植物園)が東南アジアの研究拠点。ウィリンキー(P.willinckii)の語源 J.A. Willinck もアムステルダムの人
  • ポーランド:1902年に P.wandae を記載した マリアン・ラチボルスキ
  • インドナサニエル・ヴァリック(カルカッタ植物園長30年、P.wallichii の語源)
  • シンガポールヘンリー・リドレー(シンガポール植物園初代園長、P.ridleyi の語源)
  • オーストラリアウォルター・ヒル(ブリスベン植物園長、P.hillii の語源)
  • 米国:商業流通中心で、Dreer 1905、Manda 1911 などの園芸カタログがビカクシダを販売

要するに、ビカクシダの世界地図は、欧州各国 + 植民地圏 + 米国 にわたっていました。19世紀の植物学そのものが、そういうグローバルなものだった、ということでもあります。

これらの詳細は、シリーズの別記事「ビカクシダ研究の世界マップ」として書く予定です。今回の物語編は、あくまで「ベイチーから辿る英国の物語」として読んでください。

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P.veitchii の名前に残る歴史

ここまで、Veitch商会とキュー植物園の話をしてきました。冒頭の「ベイチー」の話に戻ります。

ジェームズ・ヴィーチ・ジュニアは、自分の名を冠した "ベイチー" を見ることなく亡くなった

種小名 veitchii は、ジェームズ・ヴィーチ・ジュニア(James Veitch Jr.、1815-1869) にちなむと考えられています。ただ正直に書いておくと、Hortus Veitchii (1906) を含めて命名対象人物を明記した一次資料は確認できていません。原典には「P. alcicorne var. Veitchii, Hort.」と書かれているだけで、誰を讃えたものかは記載なし。なので 「Veitch家への顕彰」と捉えるのが正確 で、その中で最も有力な候補が Jr.、というところです。

なぜ Jr. かというと、1853年にロンドン・チェルシーの「ロイヤル・エキゾチック・ナーセリー(Royal Exotic Nursery)」を取得して、Veitch商会を欧州最大級の園芸帝国に育て上げた 人物だからです(出典:Wikipedia "James Veitch Jr.")。彼の死後、王立園芸協会(RHS)は彼を讃えて「Veitch Memorial Medal」を創設 しました。これは現在も園芸への顕著な貢献者に毎年授与されている賞で、商会の "中興の祖" として最も広く知られているのは、この Jr. です。

ジェームズ・ヴィーチ・ジュニアの肖像画
ジェームズ・ヴィーチ・ジュニア(James Veitch Jr.、1815-1869)。Veitch商会を欧州最大級の園芸組織に育てた中興の祖。1853年にチェルシーの "Royal Exotic Nursery" を取得した人物で、彼の死後、王立園芸協会は「Veitch Memorial Medal」を創設した。 Wikimedia Commons / Public Domain

ここで一つ面白いのが、Jr. が亡くなったのは1869年。一方、P.veitchii の名が英国の文献に登場する 現存する最古の記録は、1896年の Gardeners' Chronicle(王立園芸協会フローラル委員会の報告)。Jr. の死から27年後 です。1882年のVeitch商会自身のカタログにも記載がないので、Jr. が生きている間は、自分の名を冠したベイチーを目にすることはおそらくなかった と考えられます。「ベイチー」という品種名は、いわば故人への顕彰 だったわけです。

Hortus Veitchii の P.veitchii 記載(一次資料)

Hortus Veitchii (1906) の本文を辿ってみると、面白い発見があります。

1906年時点では、現在の P.veitchii は、独立した種ではなく "P.alcicorne の変種(variety)" として分類されていた んです。

Hortus Veitchii のシダの章(p.327)には、こう書かれています(原文ママ):

PLATYCERIUM ALCICORNE, Desv., var. VEITCHII, Hort.
Gard. Chron. 1896, vol. xix. p. 652 (Report of R.H.S. Floral Committee).
A form introduced from Australia, distinct in having unusually stout erect fertile fronds, of leathery substance, narrower than those of other species in cultivation, and of a dark green colour. プラティセリウム アルキコルネ・デヴォー、ヴィーチイ変種。Gardeners' Chronicle 1896年第19巻p.652、王立園芸協会フローラル委員会の報告に記載。オーストラリアから導入された一品種。胞子葉が異常に太く直立し、革質、栽培されている他の種よりも幅が狭く、深い緑色を呈する。)

つまり、

  • 1896年明治29年、日清戦争終結の翌年)に英国王立園芸協会のフローラル委員会で報告された
  • 当時は P.alcicorne の "veitchii変種" として認識されていた
  • 後に独立種に昇格 して現在の P.veitchii になった

という流れなんですね。ベイチーは昔、アルキコルネ(P.alcicorne)の変種だったわけです。

そして、Hortus Veitchii には P.veitchii の写真も掲載されています。これが120年前のベイチーの姿。

1906年Hortus VeitchiiのP.veitchii図版
Hortus Veitchii (1906) p.327 facing page に掲載された 120年前のベイチーのセピア写真。鉢に植えられた P.veitchii var. veitchii の株。葉が細長くアーチを描く特徴がよく分かる。「UNIV. OF CALIFORNIA」の透かしは、archive.orgでスキャンされたカリフォルニア大学所蔵本のもの。 Internet Archive / Public Domain

現代の私たちが育てているベイチーと、120年前の英国の温室で撮影されたベイチー葉の形・特徴がほぼ同じ であることが、写真から見て取れます。150年経っても、品種の本質的な特徴は変わっていない、ということ。

これだけ歴史を背負った品種だと知ってしまうと、自分が育てている(あるいは過去に育てていた)ベイチーを見る目が、少し変わります。「お前の名前には100年以上前の英国の園芸帝国が関係しているんだな」 という感じで、ちょっと敬意を持って眺めるようになりました。

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150年前のビカクウォール|当時の栽培方法(一次資料)

1876年頃 ブリスベン A.アーチャー邸のビカクシダ
オーストラリア・ブリスベンの A.アーチャー邸の庭で、1876年頃に撮影されたビカクシダ群 のセピア写真。木の幹に何株ものビカクシダが着生 している様子が分かります。地球の反対側、当時の英国植民地(クイーンズランド)では、こんなふうに庭の木に貼り付けて育てるスタイルが定着していたわけですね。150年前のリアルなビカクシダ栽培の景色。 State Library of Queensland / Public Domain

150年前の英国の温室の壁には、ビカクシダがびっしり並んで育てられていました。

…これ、私の妄想じゃなくて、Sandford 1882『A Manual of Exotic Ferns & Selaginella』に書かれている事実です。

on the walls may be grown the different species of Platyceriums壁面で、ビカクシダのいろいろな種類を育てられる

私が今、自宅で 「ビカクウォール」 として壁面にビカクシダを並べているスタイル、これって1882年の英国で書かれた本にすでに記述されている、由緒正しい栽培法だった わけです(出典:Sandford 1882, 序章 p.7-8 - Internet Archive)。

この記述を見つけた時は、正直ちょっと感動しました。自分が "新しい仕立て方" だと思っていたものが、実は150年前から存在していた

ここから、当時の人々がビカクシダをどう育てていたのか、Sandford 1882 のPlatycerium章と序章から分かることを順番に紹介します。意外なほど、現代の栽培方法と共通点が多かった んです。

① 「着生植物」と認識されていた

Sandford 1882 のPlatycerium章(p.201)の冒頭にこう書かれています(原文ママ):

A genus of curious formed species, and of an epiphytal growth, growing as it does in its native haunts, on trees, and in our plant houses easily grown in baskets, on logs of wood, and pieces of board.(独特な形をした属の一つで、着生植物(epiphytal)として育つ。自生地では木に着生し、温室ではバスケット・木の枝・板で容易に育てられる

1882年の時点で、ビカクシダ=着生植物=板付けで育てる、という栽培認識はすでに確立していた わけです(出典:Sandford 1882, p.201 - Internet Archive)。

② 培地は「繊維質ピートと水苔」

they should be grown in fibrous peat, and sphagnum繊維質ピート(泥炭)と水苔で育てるべし

これ、現代の私たちが使っている水苔とほぼ同じ です。当時はピートも併用していたようで、混合培地にしていたっぽい記述です。150年で培地の基本は変わっていない、という事実は地味にすごい。

ちなみに私が今使っているのも、ニュージーランド産の水苔です。150年前のSandfordの記述と、地球の裏側まで素材は変わっても、水苔という選択肢はずっと正解 だったわけです。

ジャパン蘭土 ニュージーランド産圧縮ミズゴケ 150g

ジャパン蘭土 ニュージーランド産圧縮ミズゴケ 150g

繊維が長く、保水性と排水性のバランスが良い。150年前から変わらない、ビカクシダ栽培の定番素材。

③ 「板付け株は乾かしてはならない」

the ones placed on the blocks, and boards, must not be let get dryブロックや板に付けた株は、乾かしてはならない

この一文も、現代の栽培ガイドにそのまま載っていそうな注意書き。Sandford 1882 を読みながら、「150年前の栽培者も水切れに気をつけていたんだな」 とちょっと親しみを感じました。私が普段から「カラメ管理(カラカラになってから水やり)はおすすめしない」と書いているのと、本質的に同じ判断です。

④ 繁殖は「株分け」、胞子培養は当時まだ「事例なし」

they are best propagated by divisions when obtainable, but I do not know of a single instance, of any having been raised from spores手に入る場合は株分けが最良。胞子から育てた事例は一例も知らない

英文の "divisions" は 現代日本でいう "株分け" とほぼ同じ意味。親株から子株を切り離したり、株自体を物理的に分けて増やす方法のことで、150年経っても呼び方も技術もほとんど変わっていない わけです。

ただ、現代と違うところもあります。1882年の時点では、ビカクシダの胞子培養はまだ知られていなかった ようです。「株分けが主流、胞子培養は未知の領域」だったわけですね。

現代の胞子培養技術は、その後の研究で確立したものです。今でこそ胞子培養から大量の苗を作れる時代 ですが、150年前はそうじゃなかった、というわけですね。

⑤ 温度管理:種類によって「グリーンハウス」と「ストーブハウス」を使い分け

Sandford 1882 序章(p.8-9)には、温室の温度区分も書かれていました。

Sandford 1882 / Temperature Zones

温室タイプ別の温度管理

Greenhouse(温室)
冬の最低温度
40°F(≒4°C)以上
夏の温度
該当するビカクシダ
P. alcicorne
Stove(高温温室)
冬の最低温度
55°F(≒13°C)以上
夏の温度
80-90°F(≒27-32°C)
該当するビカクシダ
P. grande, P. willinckii, P. wallichii, P. stemmaria

つまり、P. alcicorne以外のビカクシダは "ストーブハウス(高温温室)"、つまり最低13°C以上を維持する高級温室で育てる必要があった ということです。

現代の私たちが室内のエアコンで18-25°Cに保っている環境は、150年前の感覚で言えば "ストーブハウス" 相当。LEDと空調で、あの時代の貴族が苦労して作っていた環境を、普通の家で再現できるようになったわけです。

⑥ 当時の "豆知識" っぽい話

Sandford 1882 序章には、こんな話も書かれていて思わず笑ってしまいました:

I have heard of ferns being planted in air-tight cases, and having neither water nor air for seven years, and then appearing quite healthy.密閉ケースの中で水も空気もなく7年間放置されたシダが、それでも健康そうな姿で生きていたという話を聞いたことがある

ウォード箱の極端な事例として紹介されている話のようですが、シダが7年間放置で生きてた、というのが本当なら凄まじい生命力です。私はビカクシダで同じことを試そうとは思いませんが(笑)。

こうしてみると、現代の板付け栽培の基本形は、すでに150年前にほぼ完成していた ということになります。違うのは胞子培養の有無、光源(LED vs 自然光)、温度管理の手段(エアコン vs ストーブ)くらい。核心の "板付け+着生+水苔+乾燥厳禁" は完全に共通 です。

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正直に言うと:当時のビカクシダは "看板スター" ではなかった

ここまで読んでもらった上で、ファクトに忠実に正直なことを書いておきたい と思います。

ここまで Veitch商会、Lord Rothschild、キュー植物園と、ビカクシダにまつわる華やかな名前を並べてきました。でも、19世紀英国の温室植物の中でいうと、ビカクシダは "看板スター" ではなかった というのが正直なところです。

当時の温室植物の "主役" はラン(Orchid)と食虫植物(Nepenthes) でした。"orchidomania(蘭マニア)" という言葉まで生まれたほどで、専門誌・専門コレクター・専門栽培技術が確立していました。

数字で見ると:

  • Veitch商会が栽培化した植物 1,281種のうち、ラン232種・エキゾチックシダ118種
  • そのシダ118種の中でも、ビカクシダは数種
  • Hortus Veitchii (1906) のシダの章でも、ビカクシダの記述は数ページ程度(蘭の章は何百ページ)
  • 「ビカクシダ専門のコレクター」も「ビカクシダ単独の専門誌」も、私の調査では見つかりませんでした

つまり、ビカクシダは:

  • "主役" ではない(ラン・食虫植物が主役)
  • "完全な脇役" でもない(商業流通あり、学術記載あり、温室で育てられていた)
  • "温室で育てる数あるエキゾチック植物の一つ" = いわば "その他大勢" 的な位置づけ

これが、150年前の英国でのビカクシダの実態に近い と思います。

「ビカクシダはかつて英国の温室を飾った」というこの記事のタイトル、嘘ではないんですが、「数ある温室植物の一つとして、英国の温室の片隅にも置かれていた」 くらいのニュアンスで読んでもらえると、ちょうど良い温度感だと思います。

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まとめ|150年前と今

長い記事になりましたが、ざっくりまとめると以下の通りです。

Conclusion

この記事のポイント

1799年、ビカクシダはAcrostichum bifurcatumとして初記載された
1827年、Platyceriumという属が正式に設立(語源:ギリシア語で "広い角")
英国に広まった主な要因は4つ:ウォード箱(1829年)で長距離輸送可能に/ガラス税廃止(1845年)で温室普及/大英帝国の植民地ネットワーク/Veitch商会など業者の販売力
温室は「富のショーケース」だった。パイナップルが食べられずレンタルされ、きゅうりがステータスになった時代。ビカクシダもその文化の中で社会的メッセージを発する装置だった
"Pteridomania(シダブーム)" もあったが、主役は英国の在来シダ。ビカクシダの広まりとは別ルート
Veitch商会 が世界中に植物ハンターを送り、ビカクシダ含む熱帯植物を運んだ。Veitch家の名は数百もの植物に残っている
P.veitchii の名は、英国最大の園芸商Veitch家のジェームズ・ヴィーチ Jr. を記念して付けられた
1882年時点で、ビカクウォール含む現代の栽培方法はほぼ完成していた

150年前と今、何が違って何が同じか

最後に、19世紀の英国の栽培者と、現代の私たちで、何が共通していて何が違うのか

共通すること:「美しい植物を手元で育てたい」気持ち、葉の動きを毎日眺める喜び、新しい品種を見て「欲しい」となる感覚、そして失敗して枯らしてしまうこと(私自身、過去に「ベイチーは光に強いから」という情報を真に受けてベランダに出して日焼けで枯らした経験があります)。そして「板付け+着生+水苔+乾燥厳禁」という栽培の基本 も。

違うこと:当時は温室と暖房が必須で富裕層の独占物だったのが、現代はLED照明と空調があれば普通のマンションで育てられること。当時は植物ハンターが命がけで何ヶ月もかけて運んだのが、現代はヤフオクや専門店でクリック一つで手に入ること。

私たちが今、室内で何気なく育てている一株のビカクシダの背後には、学名命名から数えて約230年の歴史 があります。1799年に学名を得て、19世紀の植物ハンターたちが命をかけて運び、英国の温室を彩り、王立植物園で研究され、そして21世紀の日本のマンションのLEDの下にたどり着いている。

エルンスト・ヘッケル「Filicinae」 1904年
ドイツの生物学者 エルンスト・ヘッケル(Ernst Haeckel, 1834-1919)1904年に出版した『Kunstformen der Natur(自然の芸術形態)』第92図 "Filicinae"(シダ類)。8種のビカクシダが放射状に配置 され、中央に大型のビカクシダ(おそらく P.grande)が描かれた、博物学史上で最も美しいシダ図版の一つ。当時の科学者たちが「ビカクシダはこんなにも多様で、こんなにも美しい」ということを残そうとした証。学名命名から100年経って、ビカクシダの形の不思議さは時代を超えて愛されていた ことが伝わる図版です。 Wikimedia Commons / Public Domain

知らなくても育てるのに困ることはない情報です。でも、知っていると、自分の株を見る目が少し変わる気がします。少なくとも私は変わりました。「お前は長い旅の末にここに来たんだな」 と、ちょっと敬意を持って眺めるようになりました。

シリーズ予告

これは「ビカクシダの歴史」シリーズの 第1弾「物語編」 です。今回は全体の流れに絞って書いたので、書ききれなかった話がたくさんあります。次の2本で深掘りしていく予定です。

  • 第2弾「お金編」:1882年のVeitch商会のカタログを実際に読み解いて、当時のビカクシダの値段を現代日本円に換算してみました。P.alcicorne 3シリング6ペンスは、今のいくらなのか?
  • 第3弾「名前編」:18種それぞれの名前にはそれぞれ物語があります。ヴァンダはポーランド人植物学者の妹? ウィリンキーはアムステルダムの誰? 名前の由来を一次資料で全部追いかけます

お楽しみに。